8月中は海で、家で、あちこちで怪我をしました。
膝をすりむいたり、包丁で爪(ちょっと指も)を切ったり、大きなムカデに刺されたり。
ひとつひとつは大したものではないけれど、それによって気づくことがあります。
怪我をすると、最初は「痛い!」と言いたくなるような感覚が強くて、体の中でも主役級に目立ちます。
それまで「なかった」ものが「現れた」わけですし、存在感抜群、心はそれにばかり集中します。
しかし、例えば、海で遊んでいる時に膝をすりむいても、意外と気にならず、ハッピーなままでいることがあります。
なのに海から上がると、てきめんにズキズキし始めるのは、どうしてなんでしょう?
▲この夏、茅ヶ崎にて。膝小僧、負傷中です。ズキズキし始めた頃(笑)
きっと、「楽しい!」という感情が痛みより大きいと、さして痛く感じないのでしょうね。
人の意識が何に向かうかによって、体験自体がこんなにも変わるのか、とドキッとした瞬間でした。
瞑想して、意識を呼吸へ向けるよう何度も繰り返すのは、自由に意識を扱うための練習なのでしょう。
そして傷が治る経過もまた、とても豊かな時間でした。
最初の激しい感覚がおさまってくると、私はその傷を「なかったことにしよう」とする傾向があります。
これは例えば、心の傷でも同じで、なるべくそれに触れないで、なかったことにすることで、身を守ろうとするのです。
でも、無意識でいると治りかけの膝をぶつけて涙目になります…これを何回か繰り返して、「ああ、私はこの傷とちゃんと関わったほうがいいんだな」と気づきました。
そこでまず、したことは、傷の様子を確かめることでした。
ちょっと目を背けたくなる衝動も沸きますが、現実を知らないと、どうしたらいいか、どうしたいか、が決められない。
ちゃんと現実をみて、そこから、この傷とどう付き合うか、傷との関わり合いが始まりました。
消毒がいるか、いらないか。
絆創膏を張るか、張らないか。
動かしたいのか、休ませたいのか。
どんな服を選んで、どう動かすと楽だろうか。
このプロセスは、ヨガや瞑想で現実を知り、感じて、見て、知恵に委ねることと、同じように感じます。
「治癒」にかかる時間は、怪我をする瞬間や最初の大きな痛みを体験する時間に比べたら、ずっと長く、いつに終わるのかわからない。
だからこそ傷の存在を認めて、その時期を、どう過ごすかが重要なのでしょう。
それにできた傷はなかったことにはできませんしね。
傷があるから、これができない。痛い痛い、イヤダイヤダ、と思って何もしないのではなく、自分に起きていることをちゃんと見て、そこと関わり合うこと。 その関わり合いのなかで、できる工夫を試しながら、少しづつでも変化する生命を感じるプロセスのすべてを、「セルフケア」というんだな、と思うと、なぜアーユルヴェーダであんなにもセルフケアを勧めるのか、真の意味がわかったような気がしました。
最後にできたかさぶたが、剥がれかけてきた膝小僧を見て、根気よく「セルフケア」してあげられてよかったな、と思います。
生命の力に感謝です。
2016-09-10
カテゴリ: アーユルヴェーダの日々