アーユルヴェーダの日々 - 暮らしにもっと「感じる自由」を。 〜前編〜

2015年も残り3ヶ月・・・3月に前のコラムを書いてから、あっという間でした。
渡米して、長年の夢であったアーユルヴェディックヨガ教師認定を受け、宿泊型のクリパルヨガ教師トレーニング(YTT)をアシストし、9月には日本初の フェニックスライジング・ヨガセラピー・トレーニング(PRYT)レベル1~2を受講・・・と、大きな出来事が続きました。

特に、9月に生徒として受講したPRYT中は、繰り返し、体の中にいて、そこで起きていることをそのまま(ジャッジせず)気づくようを促してもらうプログ ラムだったため、ここ数年見過ごしてきた感情や感覚を、まるで手の平の上で、色々な方向から眺めて、味わうような温かな時間でした。その最中のわたしは、 自分史上、一番自分らしく、そして居心地のよい生き方をしているように感じました。

しかし普段の生活に戻って数日経つと、だんだんとその繊細さやクリアな感覚は薄れてきました。ここが、分かれ道だ、と思いました。
PRYT中の自分を思い返して、何が違うのか観てみると、普段の生活では考えることが多すぎるのだと気づきました。必要に迫られて、決断をするために、考えている。困ったことにならないように、△△しなくては、と考えて、焦ったり、ジャッジすることが、多すぎるのです。

PRYT中も、頭で考えていることに何度も気づきました。社会的な暮らしを営む上で、それを必要とするときもあります。でも、今はやめよう、と選択するこ ともできます。そこで考える代わりに行ったのが「感じる」ことです。これは、クリパルに出会ってからずっとわたしのテーマでした。

例えば何かに困っている人がいて、その人の話を聞くと、なんとかしてあげなくては、どうしたらいいだろうか、と考えます。時には、そこから行為したりアド バイスしたりするでしょう。それもひとつの関わり方です。しかし、もうひとつの可能性として、ただ聞いて、その人の気持ちに共感して、何かしようとはしな いことも出来ます。後者は「感じる」ほうを選択しています。そして、結果はそれぞれに異ります。しかし、考えることに比べると、「感じる」ことの価値や意 義は、十分認知されていない状況にあるのではないでしょうか。それは、なぜか・・・?

日常生活で感じないのを選択するには、こんな理由が思いあたりました。

「感じる」と・・・

・時間がかかる
・その割に結論はでない
・結論が出ないままでいるのは居心地が悪い→マインド(思考)は焦って、良しとしない
・「感じる」ことによって余計な荷物を引き受けるんじゃないか、という恐怖
・感じることを「恥」とする文化

最後の二つは、例えば、「わたしは怖がっている」と気づいてしまうのが嫌だったり、「これくらいのことで怖がっているのは、恥ずかしい」というような気持ちが起こり、恐怖そのものを追いやり、ないものと見なそうとするというような場合です。
すでにあるものを隠すためにエネルギーと思考を使っていると、本心と繋がることができなくて、空回りしているように感じたり、ストレスを感じる状態になりました。

後編へ続く

2015-10-24

カテゴリ: アーユルヴェーダの日々

 

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