アーユルヴェーダの日々 - 蔓を見て、祈りの言葉の意味を思ふ

夏ですね。我が家の窓の外には、へちまと瓢箪の蔓が絡み合った緑のカーテンが見えます。少しでも夏を涼しく過ごそうと、せっせと水をやりながら、上へと伸びて育って行くために、自ら蔓を伸ばして支えになるものに絡み付いて行く姿をしみじみと眺めました。

シバナンダヨガの終わりの祈りの中に、「胡瓜が蔦からなるように、私たちを死という束縛から解き放ちたまえ」という節があります。植物が蔦を絡ませるのは、自らが生きるため。では、私たち人間が生きるために絡める蔦は何だろう、なんてことを考えました。

それが、生きるために必要なのに、同時に束縛になっているもの。大切だけど、時にうざったいもの。私には蔦は、過去の、現在の、そして未来の人間関係のようにみえました。
例えばベース近くにあるのは、両親や兄弟といった家族です。好む好まざるに関わらず、決して切り離すことの出来ない蔓。久しぶりに実家で2週間過ごして、子供の頃と代わり映えしない家族との関係を見て、複雑な気持ちになりました。

人生をともに過ごしたいと思うパートナーとの結婚は、逆に離れて暮らすときには、大きな寂しさを生みます。そして子供を産むと、育てられる喜びと同時に自分の時間はなくなり、愛するからこそ心配事も増えます。

私には、3回会っただけでもう会えなくなってしまった友人がいるのですが、彼女はこのことをクモの糸みたいだね、と言っていました。

私は、何百回も祈りの言葉を口にしてきましたが、窓の外で生きているへちまと瓢箪から、その意味を教えていただいたように思います。やっかいな蔓に思えても、一瞬の繋がり合いだけの蔓であっても、全て自らが伸ばして自らを巻き付けている。束縛に思えることは決して、他者や周りの環境のせいではない。

8月お盆過ぎに、久々にシバナンダヨガのクラスを代行させていただきます。窓辺の蔦に感謝しながら、お祈りを唱えたいと思っています。

2008-08-07

カテゴリ: アーユルヴェーダの日々

 

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