琺瑯の懐かしく温かい感じが好きで、ケトルは琺瑯を選んでいる。
一代目は真っ白なケトルで、大切に長く使いたいと思っていたのだが、時々空焚きしてしまい、必死ですすを落としてまた使う、と言うのを繰り返してきた。
それをキャンプ用に回すタイミングで購入した二代目のケトルも、使い始めて半年・・・とうとう空焚きをしてしまった。
お湯を沸かしていることから意識が離れてしまうとこうなるんだよな、と反省しきり。しかし、すぐに水に付けると表面のガラス質が剥がれるという残念な結果を引き起こすことを経験上学んだため、一晩置いて、しっかり冷ましてから、朝、おもむろにすす落としにかかった。
一代目のケトルを洗い上げるときはいつも「激オチくん」を使っていた。だが、二代目のケトルのすすは、これではほとんど落ちなかった。力を入れて擦っても駄目。一代目と同じ方法では通用しないことを認める他ない。
次に目に留まったのは金タワシ。しかし、傷がつかないかしら?という不安がよぎる。
そっと、力を調整して怖々、金タワシで擦ると、すすが落ちる手応えがあった。
傷つけないように、時折水をかけ、力を調整して、様子を見ながらケトルを擦る。
力づくで、ただ「激オチくん」だけを使って擦り洗いをするのとは、同じすす落としを目的としていても、アプローチが違う。
ケトルの表面を良く見て、タワシで擦る感覚を良く感じて、このくらいなら大丈夫、と確認しながら進んでいくうち、手に伝わって来る感覚に敏感になり、心が集中して、その作業自体を楽しみ始めていることに気づいた。そこでふと、思い当たることがあった。
例えば何かの問題を解決したい時、ストレートに、一番効率がよいと思われる対応をするのと激オチくんで力任せに擦るのはよく似ている。そして、相手が傷つかないように様子を見ながら、調整しながら対応するのは、金タワシで力を調整しながら進める作業と同じようなことなのではないか。前者に比べて後者は、一見面倒で、時間がかかり、効率が悪いようにも思える。しかし、今回激オチくんでは落ちない「すす」に、金タワシという別の道具を使い、ケトル本体を傷つけないように工夫したように、人間関係においても相手や状況によっては、いつもとは違う方法をとらなければ、自分の望む方向へ進まないこともあるのだ。そんな風に、時間はかかっても、行く末を見据えて、いまできるベストな方法を意識的に選ぶということにチャレンジする時期に自分は移行してきているのだと感じた。
ケトルを洗いながら、そんなことを思う一方で、いやまずは、空焚きしなくてすむように、「日々マインドフルに」だよねと、ひとりツッコミをいれる私であった。
2015-05-18
カテゴリ: アーユルヴェーダの日々