ある朝のことです。息子がお茶の入ったコップで遊び始めました。想像以上に盛大にこぼし、台拭きを取りに来て、こぼれたお茶を拭く…そして、何もなかったかのように朝食を食べ始めました。
小さいことやどうでもいいようなことには簡単に謝れるのに、「ここは謝ろうよー」と思うようなシーンでは、なかなか「ごめんなさい」がいえない…。
こういう時、起きたその場で話をしなくちゃと、私は、息子に迫ってしまいます。
そのために遅刻させたことも何度かあります…が、この時は、途中でやめて、本人によく考えるように言って、学校へ行かせました。
「結論」を出さないと済ませられなかった私が、「今じゃないのかもしれない」と切り替えられたのは、小さいけれど、新しい選択でした。そして、気を長くもって、また同じことが起きたら、何度でも注意を向けて、同じように問いかけようと思えました。
その後ふと、私自身が18歳くらいの時、バイト中に「どうして真面目に謝れないんだ」と怒られたのを思い出しました。私は黙るのではなく、笑って、シリアスになる居心地の悪さをごまかそうとする方でしたが、似たようなものです。それ以来、「ちゃんと謝れる人」=勇気や誠実さがある人 = かっこいい!という新しい価値観を得て、これは早いうちに身につけたほうがいい、自分みたいなみっともない思いをさせたくない、と思ってたんだなと気づきました。でも、慌ててもダメなのですね。人にはその人なりのプロセスがあるのですから。
そう思うことで私は、今の子供の在り方だけでなく、自分自身のことも受容できたように感じました。
こうなりたいという目標や結果があっても、そうでない時、みなさんはどうしているでしょう?
答えを出そうともがいたり、無理やり絞り出してそれで終わりにしようとしたり、諦めることもあるかもしれません。
でも新しい道として、今は答えが出ないと認めることも、とても大きな力になります。
そうすると、緊張が解けます。リラックスしていられれば、その場で解決できなくても、関心を持ち続ける持続力が得られるように思います。関心を持ち続ければ、いつか必ず答えは見つかります。そしてそれこそが、もっとも現実的で、腑に落ちる答えとなるでしょう。
2016-10-15
カテゴリ: アーユルヴェーダの日々